板垣 退助(いたがき たいすけ)を高価買取!掛け軸の査定ポイントを徹底解説!

1.板垣退助を売りたいお客様へ

板垣退助は1837年高知県に生まれた政治家です。土佐藩士栄六正成の長男として生まれました。幕末期に倒幕派として戊辰戦争に参加。参謀として活躍しました。 明治維新後は参議として政治の世界に身を投じました。そして自由民権運動を主導し、庶民的な政治家として支持を得ていました。第一次大隈内閣の内務大臣として入閣しましたが、内紛が激しく政治家を辞職。政界引退後は社会事業を手がけました。 その人気の高さから紙幣にもなり、現代でも書簡や書を集めている方がいらっしゃいます。

2.板垣 退助についての解説

板垣退助は土佐藩士の子として生まれました。吉田東洋の影響を受けて育ち、文武の修行に励んでいたと言われます。幕末期には倒幕派となり1868年の戊辰戦争に参加。倒幕軍の参謀として活躍しました。 明治時代に入ると西郷隆盛、木戸孝允、大隈重信ら共に政界へ。1871年には参議となりました。1873年に征韓論を主張するも閣議決定により却下されたために下野。世論も板垣らを支持していたため、自由民権運動を手動しました。この翌年岐阜で暴漢に襲われ負傷。この時「板垣死すとも自由死せず」という後世に残る言葉を発したと言われています。 療養後は一旦政界に戻り内務大臣をつとめましたが、1990年に政界から引退。晩年は社会事業に力を尽くしました。 幕末、明治と激動の時代を生きた.板垣退助。新しい政治のあり方を示した政治家として後世の人々に多大な影響を与えました。

3.板垣 退助の歴史

板垣退助は1937年、土佐藩士乾正成の嫡男として生をうけました。幕末期に活躍した土佐出身の後藤象二郎や中岡慎太郎とは交友がありました。しかし坂本龍馬とは生前に出会っていないとされていますが、互いに書簡のやり取りがあり面識はあったのではないかとされています。 幕末期には倒幕派として戊辰戦争に参加し、参謀として活躍しました。この時、乾から板垣という性に変えたとされます。明治維新後は政治家として活動しましたが、1873年に征韓論を主張し白書を提出しましたが政府によって却下。これがきっかけとなり西郷隆盛とともに下野。世論もこれを圧倒的に支持しており、二人にならって辞職する官僚は約600名にも及んだとされます。 1874年に愛国公党を結成・自由民権運動を推進。1881年に自由党の党首となりました。その後全国を遊説中、岐阜にて負傷。1884年に自由党を解散しましたが、後に立憲自由党を結成し1900年の引退まで政治の一線で活躍しました。 引退後は社会事業に尽力。1919年、病により死去。享年82歳。その人気から第二次世界大戦後の50銭政府紙幣、日本銀行券に肖像画が用いられました。

4.板垣 退助の代表作や作者

「板垣政法論」    1881年 「通俗無上政法論」  1883年 「選挙法改正意見」  

5.板垣 退助の買取査定ポイント

まずは板垣退助本人のものであるという証明が必要となります。鑑定書や証明書などがあると高額査定の可能性があります。また書簡であれば、「いつ、だれに、どんな状況で」送ったかがはっきり分かるものがあれば、さらなる高値の可能性もあります。 また保存状態が良い、箱があるなどの一般的な骨董品のポイントもあてはまります。
  • 板垣退助本人のものであるか(証明書や鑑定書があるか)
  • 保存状態は良好か(箱などが残っているか)
  • 大きさはどれくらいか

6.板垣 退助の取引相場価格

掛け軸としては書か、手紙などをはって掛け軸にしたものが多いと思われます。しかし著名人である板垣退助の書や手紙が市場に出ることは非常に稀だとされています。出ても真贋証明がなされていなければ、数百円~数千円でしょう。 過去にテレビ番組で板垣退助の書簡が約100万円の鑑定額がついていました。そのためもし本人のものと鑑定がなされれば数十万~数百万円の値が付く可能性はあります。

7.板垣 退助についてのまとめ

激動の時代を生き抜いた政治家、板垣退助。平等な社会、国民が選んだ政治家による国会の運営を指導した偉大な政治家として後世にその名を残しています。特に自由民権運動を主導したとして有名で、国民から圧倒的な支持を得ていました。彼の功績や人気を称え、第二次世界大戦後は紙幣にもなったので知っている方も多いことでしょう。 板垣退助の書や手紙を残した掛け軸が出ることは稀ですが、本物と鑑定され保存状態が良ければ100万円を超す高値になる可能性もあります。